障害者の愚行権と自由
尊厳死を望んでいたALS患者の死に医師が手を貸した京都の事件について、少し思うことを書きたい。
ALSによって全身が動かない状態になってしまった女性が、尊厳死を求めながら主治医からは許可されず、SNSで知り合った医師に嘱託殺人を依頼したとされる本事件。
この事件から自分が連想したのは、つい先日話題になった知的障碍者が働くデリヘル店だった。
養護学校出身の知的障碍者をデリヘルで働かせるのはアリなのか。それがたとえ本人の意志と同意に基づくものであっても、それは許されるのか。
障害者の自由と愚行権をめぐる問いを、鋭く突きつけたのが本件だったと思う。「自由」に重きを置く論者は職業選択の自由の原則に則って障碍者がデリヘルで働く自由を擁護し、「保護」に重きを置く論者は認知能力に欠ける当事者が性風俗産業で搾取される危険について声を発した。
ただし、少なくない当事者たちが、「自由」を求めて声を上げていたことは記憶されるべきだとも思う。この一件がネットで注目を浴びた直後、ある知的障害当事者の女性が風俗で働く自由について発言して注目を集めた。
「普通の仕事は難しすぎた」
「風俗の仕事は幸せだった」
そう語る彼女の言葉は、性風俗業についての一面の真理を突いている。
遅刻や当日欠勤が比較的許容され、短時間の拘束時間で売上をあげることができる性風俗業は、ある種の生きづらさ(知的障碍者や発達障害など)を持つ女性の居場所やライフワークになっている側面がある。
無論、そのような女性を搾取して成り立っているのが風俗業だという批判も間違いなく真理の一側面なのだが、しかし風俗業の中でなんとか"生きて"いる知的・発達の女性当事者が多くいることもまた間違いない。搾取性と保護性を両義的に帯びているのが売春業というアンダーグラウンドな職業で、その正邪を明確に切り分けることは難しい。
ALS患者の嘱託殺人と知的障碍者がデリヘルで働くことは全く別の事だと思われるかもしれない。しかし両事件は本質的に極めて似通っているのだ。
ALS患者嘱託殺人事件、知的障碍者のデリヘル勤務、このふたつの事件を貫くキーワードは「障碍者の愚行権」そして「保護と自由のジレンマ」だ。
「保護」と「自由」を両立させることは難しい。人類の中の最弱者、幼児について考えてみるとそれがよくわかる。
幼児は往々にして、口に入れてはならないものを口にし、触ってはいけないものを触り、入ってはいけないところに入ろうとする。幼児の行動は、基本的に幼児を危険に晒す。
だからこそ保護者は、幼児から自由を奪う。抱っこひも、セーフティハーネス、これらは全て幼児から自由を奪うものものだ。もしこれらの拘束具が健康な成人に施されていたら、我々は即座に犯罪の徴候をそこに見出すだろう。しかし幼児に対しては、それは許容される。
子供たちに対する身体拘束はなぜ許されるのだろう。理由はもちろん、彼らを保護し、危険から守るのに必要だからだ。保護者は幼児を痛めつけようと思って抱っこひもやセーフティハーネスを使うのではない。彼らを危険から守り、安全で幸福に暮らしてほしいと思うからこそ身体拘束を用いて児童を保護する。そう、「保護」は往々にして「自由」を奪い去るのだ。
保護と自由のトレードオフ
この幼児の身体拘束と全く同じことが、障害者福祉をめぐる問題に立ち現れている。保護されるべき弱者が、その保護から脱しようとしたとき、どうするべきなのか?という問いだ。
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